


インドネシアは、1万7500以上の島々からなる国である。島ごとに独自の文化、宗教があり、風土や自然も実に多様だ。対岸が間近に見える島でさえ、人々の顔、気質、言葉、料理の味付けまでも異なる。その多彩さには驚くばかりだ。そして、島々をつなぐ、青く輝く海。海もまた、島から島へと渡るにつれて表情を変えていく。僕は 20 年以上前からインドネシアの島々を幾度も旅したが、決して飽きることはなく、その度に奇跡に近いような光景に遭遇してきた。
初めて バリ島を旅した時のことである。
赤道近くにあるインドネシアの島々では、闇が深いために、月が殊のほか明るく輝く。文庫本が読めるほどの明るさだ。バリ島では、月の女神のことをデウィ・ラティと呼び、満月の夜に海で沐浴すると女神のように美しくなれると今も信じられている。事実、サヌールビーチでは、夜、若い女性が沐浴する姿がしばしば見られる。満月の夜、ラグーンではサンゴの産卵がはじまる。干潟にはカニの大群が押し寄せ、砂浜ではカップルが肩を寄せ合い、島のあちらこちらで産声が上がる、月夜の神秘。
その夜も、ココナツやバナナの葉が月光を浴びて艶やかに輝いていた。風は無かった。

僕はコテージのテラスで、月光に青白く浮かび上がったジャングルを時を忘れて眺めていた。天を仰ぐと、数え切れない星々が瞬いていた。ふと息をつき、もう一度目を上げたその瞬間、目の前に信じがたい光景が広がった。天空の星々が舞い降りて、僕を取り囲んだのだ。何が何だか理解できなかった。人間の脳の回路は、未体験の大事が起きた時、一種のパニック状態になるという。僕は文字通り思考停止に陥った。
星々の光は一様に青白く、浮遊しながら離合集散を繰り返した。あるものは僕の部屋の中まで入ってきた。ようやく僕は、その星々が蛍であることに気づいた。僕のインドネシアの原風景は、青い海でも深い緑のジャングルでも、猥雑な喧騒でもなく、月夜の幻想的な光景だった。海を越えて、人がつながり、共生する。それがアジアの島々だ。不幸にして、津波による被災がアジアの広がりを明らかにした。だが、せめて夜だけは、深い闇が痛々しい被災の痕跡を覆い隠し、月光を浴びながらアジアに生きることの幸せにふと胸を熱くしてほしいと願う。
※月刊誌『島へ。』(海風社) 2005 年2月号掲載